森鴎外(1862~1922)
通称"猫の家"(鴎外が住み、後に夏目漱石も住んだ)から明治25年ここに移りました。
2階書斎を増築し、東京湾の海が眺められたのでこの家を鑑潮楼と名づけられました。
鴎外は大正11年60歳で没するまで、30年間ここに住んでいました。(家は戦火で焼失)
鑑潮楼の表門は、藪下通りに面したこの場所にあり、門の礎石や敷石は当時のままです。
夏目漱石(1867~1916)
この地に漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年6月から39年12月まで3年10ヶ月住んだ家がありました。
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石はこの地で初めて創作の筆をとりました。
その作品『吾輩は猫である』の舞台として "猫の家"と呼ばれ親しまれました。
旧居は愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してあります。
樋口 一葉(1872~1896)
明治26年から明治27年にかけて当時の下谷竜泉寺町の長屋に母妹と住み、生活苦にもめげず「琴の音」などを雑誌「文学界」に発表しました。
その後本郷に移転するが、名作『たけくらべ』の構想はこの竜泉時代に出来ていたとされています。
その一葉を記念して昭和36年に落成したのがこの記念館です。
館内には一葉に関するさまざまな資料のほか、当時一葉が住んだ竜泉寺町の二軒長屋の模型もあり当時の町の様子がよく分かります。
石川啄木(1885~1912)
明星派の浪漫主義詩人として出発、小学校代用教員となり、北海道に渡って地方新聞の記者になったが、作家を志望して上京、朝日新聞に勤務しながら創作活動を続けました。
明治44年(1911年)、本郷弓町の喜乃床の2階からこの地の借家に移り、翌年4月13日逝去まで居住しました。
間取りは玄関2畳と4.5畳と8畳と台所であったといい、移転時には既に病床にあって、文学的活動はなかったといいます。
都内の啄木の遺跡としては『スバル』の編集所でもあった文京区本郷森川町の蓋平舘、本郷弓町の喜乃床など下宿した家もありますが、この地が啄木終焉の地として指定されました。